南島原市の皆様、ありがとうございました!

10月17日、南島原市人権・男女共同参画室主催の人権講演会にお招き頂き、誠にありがとうございました。450名の市民の皆様にお越し頂き、お陰様で、夜の講演ではありましたが、盛会のうちに終わり、大変光栄に存じます。

今回訪れた島原市は、私にとって生まれて初めての町でした。主人のCraigも一緒に伺わせて頂き、ずっと訪れたかった南島原の観光も、思い出深いもととなりました。
先ず、最初に連れて行って頂いたのは平成噴火のあった雲仙岳の火砕流の熱風によって火災、焼失した「旧大野木場小学校旧校舎」そして、隣接する展示館です。火砕流の恐ろしさを学ぶことが出来ました。島原半島は約430万年前におきた海底火山の噴火を皮切りに、主に火山活動によって大きく成長したところだそうです。約220年前には雲仙岳眉山が崩壊し、津波が発生。肥前、肥後両国で15,000人もの人命が失われました。この災害を「島原大変・肥後迷惑」といったそうです。
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その次に連れて行って頂いたのは、1637年に起こった島原の乱の最終舞台となった「原城跡」です。徳川幕府によるキリシタン弾圧、領民に対しての重税、新税、年貢を払えない者には迫害、家族をつかまえて水責めにしたり、蓑で巻いて火をつけるなどの拷問を行い、その後の台風、日照りの害による凶作など、領内では大量の餓死者が出る事態となりました。困窮のどん底にあげく農民達の不満が爆発し、農民一揆となり、島原城を囲み、対岸の天草にも飛び火し、この一揆衆の総大将として率いたのが、かの有名なキリシタン、「天草四郎」でした。
結束を固めた一揆衆は、棄教者のキリシタン復帰も相次ぎ、37,000人の一揆衆は88日間原城に立て籠もったが、12万の幕府軍の前についに落城。城内にいたほとんどの一揆衆が殺害され、四郎と首謀者たちの首は長崎の出島でさらされたといわれます。
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弱いものの為に人生を投げ打って戦った16歳のキリシタンの天草四郎(本名益田四郎時貞)(洗礼名ジェロニモ)、泣き寝入りするのではなく、幕府に対して反発し、正義の為に戦った人、民主化の先駆けとなった彼こそが、「人権」の為に命を掛けて変化を起こした最初の日本人ではなかったのだろうか?と強く考えさせられる機会となりました。
今は穏やかな南島原。お互いを大切にし、愛し合い、赦しあい、励ましあう事が出来ますよう、平和な暮らしがずっと続きますように、心からお祈り致します。

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