平和のキリシタン武将-内藤如安(ジョアン)


ジョアン内藤.JPG


本日、九月六日、京都府南丹市に行きました。下車した駅は「八木」駅。


八木公民館で、婦人会の講演にお招き頂きました。日曜日の午後に、皆さん稲刈りが始まったこの忙しいときに、大勢の女性がお越しくださり、誠にありがとうございました。



その公民館での講演会は、実は、二回目なのですが、今回控え室として使わせて頂いた応接室に、写真の兜が飾っていました。(前回は違う控え室でしたので、この兜を見たのは今日が初めてです!)

『平和のキリシタン武将 - ジョアン内藤飛騨守の兜』 

もちろん、これは想像作品でしたが、日曜日の今日、この十字架を見た時、イエス様はこの八木の土地に480年以上前からおられたんだ!とビックリしたと同時に、とっても嬉しかったです!

そして、こんな私をも、神様は用いて下さり、神様の愛を、赦しを、そして、希望を、私の口を通して南丹市の女性の皆様に伝えさせて頂きました。
ハレルヤ!主よ感謝致します!

さて、この、ジョアン内藤(内藤如安)とはどういう方だったのか、調べてみました。

 

ジョアン内藤兜.JPG

内藤 如安(ないとう じょあん)は、戦国時代から安土桃山時代キリシタン武将

松永長瀬の子、または養嗣子。松永久秀の甥にあたる。諱は忠俊。別称を小西如安(如庵)。飛騨守・従五位下。号を徳庵とも。丹波国船井郡八木城主。
キリシタン武将であり、洗礼名はドン=ジョアン。通り名の「如安」は洗礼名の当て字か。
永禄7年(1564)に宣教師ルイス=フロイスから洗礼を受け、キリシタンとなる。
天正元年(1573)、将軍・
足利義昭の救援に上京したため、義昭を駆逐した織田信長に所領を没収された。
のち
羽柴秀吉に仕えて小西行長の与力に付され、天正20年(=文禄元年:1592)より始まる文禄の役では行長と共に渡海しており、朝鮮・明国との和平を模索する行長の命を受けて講和交渉に奔走した。この交渉においては文禄2年(1593)7月頃より日本側の使者として国書を携えて北京に向かったが、明への入国手続きや和平案の調整などで手間取ったため、北京入りが実現したのは文禄3年(1594)12月になってからのことであった。しかし、この苦難も虚しく交渉が決裂したために朝鮮再征(慶長の役)が決定された。
慶長5年(1600)の
関ヶ原の役で西軍に与して敗れた行長が処刑されたのち加藤清正に仕えるが、同じくキリシタン武将であった高山重友の斡旋により、重友と共に加賀国前田家の客将となる。
慶長19年(1614)、徳川幕府からキリスト教禁止令が出されると同年9月24日、宣教師や重友らと共にマニラに追放され、寛永3年(1626)の末、同地で死去した。